「招き館の殺人」幕間 〜二人の絆〜
著者:月夜見幾望
3
「───探偵になる」
あの日、私は親友にそう告げた。
赤い空。彼方に落ちてゆく夕陽はとても赤くて。茜色の街並は至る所で赤い光を反射して。空虚な眼に映るのは一面の赤ばかりで。
それが、今にも張り裂けそうな私の胸をより一層残酷に抉った。
あの桜……。浅川の川辺に咲くソメイヨシノはとても綺麗で、4月上旬には花見目当てで大勢の人々が集う。
見頃を迎えると、しっかりと根付いた太い幹から伸びる枝は、頭上で幾重にも重なりあい、それはもう見事な桃色の天蓋を成す。風のリズムに合わせて踊る花吹雪はさながら春の妖精のようで、人々の間をさっと駆け抜けたかと思うと再び舞い上がり、くるりと一回転してから、名残惜しそうに地面に着地する。
どちらが美しいかを競い合い、数々のパフォーマンスで見物人たちの目を楽しませる───その様子はまるで、一週間ほどしかない短い寿命と知りながらも、その時間を懸命に生きようとしているようだった。
だから父は、付近一帯に咲くソメイヨシノの中でも一際大きくて立派な大木に「生命の桜」と名付けた。
小学校に入学したばかりの頃、私は父に連れられて夜桜を見に行った。
私が人見知りの激しい性格なのを考慮して、大勢の花見客で賑わう昼間は避けてくれたのだろう。あるいは、昼間では見られない、夜ならではの魅力があったのかもしれないが。
とにもかくにも、父が名付けた大木を見て私は思わず息を呑んだ。
さらさらと川が流れる音だけが支配する中で、満開の花を咲かせるその圧倒的な存在感が、ちっぽけな私の中で深く根を張ったような感じがしたのだ。
心の内側からしっかりと支えてくれるような頼もしさが、どこか父に似ていると思ったからなのかもしれない。
そんな私の表情を満足そうに見つめていた父は、視線を大木のほうに移すと、
「これはね。父さんがこの世で一番気に入っている桜なんだ。今ある一瞬一瞬を精一杯生きようとしている意志の表れみたいでね。この太い幹に習って、自分の深い部分は決して揺らぐことなく真っ直ぐに。あらゆる方向に伸びる枝のように未来は無数に分かれているけど、どの未来を選んでも必ず花は咲いている。───その様子から、どんな道を歩くことになっても幸ある人生を、という願いを込めて、父さんと母さんはお前に『桜』と名付けることに決めたんだよ」
───私の名前の由来。
父はそれを語ってくれた。
『桜』という名前。それまではありふれた響きだと思っていたけど、父が込めた想いは、目の前で懸命に生きているこの大木と同じように、たった一つしかないかけがえないものだ。
どのような道を選んでも幸あれ、と。この名前に込められた意味を噛みしめて、今まで以上に精一杯生きていこうと、子供の私は誓ったのだった。
なのに……。
……ん!
明滅する記憶の断片。
………ん!
かつての思い出は急速に遠ざかり、記憶は赤色で染め上げられていく。
………ん!!
(なに? 何て言っているの?)
………さん!!
(さん? お父さん?)
ノイズ混じりのだれかの叫びは幾重にも私の中で木霊する。
しかし、それがはっきりとした形を成すことはなく。
………さん!!
ただ悪戯に繰り返される。
……透明な雨…
……二つの…
(二つの?)
……赤い桜…
かつては綺麗な桃色の花を咲かせていた「生命の桜」。
それはもはや見る影もなく───
……巨大な…
(巨大な?)
……吸血鬼…
そう、それはまるで巨大な吸血鬼のようで───
……“───”が切断された…
(なにが? それだけはどうしても思い出せない)
………さぁぁぁぁぁぁぁん!!!
はっと目が覚めると、そこは電車の車内だった。
朝の通勤ラッシュ時間帯の満員電車。車内はほんの微かに冷房が効いているが、混み合った人の群れに遮られ、蒸し返るように暑苦しい。黒い背広やスーツ姿の人は皆一様に顔をしかめている。大きな通学鞄を持った学生たちも、しきりにハンカチで汗を拭いていた。
携帯をいじっている人。新聞を読んでいる人。音楽を聴いている人。うたた寝をしている人……。
変わることのない、いつもの朝の光景だ。どうやら、私は昨夜の疲れのせいで、ついうとうとしてしまっていたらしい。車内の温度のせいなのか、それともさっきの悪い夢のせいなのか(おそらく両方だと思われるが)、私は額に嫌な汗をびっしょりかいていた。
あの夢は、幼い頃の私が見た「生命の桜」と、父の血をたっぷりと吸い上げた「死の桜」の対比図だった。
桃色の花びらと、赤い花びら。生の象徴である大木と、死に魅入られた大木。
二本は同じものであるはずなのに、それらは決定的なまでに違う。
あの大木に込められた意味。それさえも根本的に断層のずれた……そう、言うならば真っ二つに引き裂かれた桜だ。
(まるで自分が引き裂かれたかのよう……)
しかし、それは間違いではないだろう。
「死の桜」から伸びる枝の先には、赤い花びらが鮮やかに咲いていた。それは決して幸あるものではなく、死の渦巻く奈落の道に違いない。
実際、私はもうその道に入ってしまっているのだ。
赤い、赤い景色の中。父の死を思わせる夕陽が空を支配していたあの日。私は「探偵になる」と、親友に告げた。父を殺した犯人をこの手で裁くため、私は自ら赤い道をたどると決めたのだ。
そう告白した時、彼女はどう感じただろう。
どんな時も笑顔を絶やさない女の子。しかし、その時だけは彼女の表情に一瞬暗い影が見えたような気がした。もしかしたら、復讐心に燃える私を、奈落の道を突き進もうとする私を、なんとか引き戻そうと必死に言葉を探していたのかもしれない。
彼女は少し悩んだ末、いつもの明るい笑顔でこう言った。
「うん、桜が探偵になるなら、あたしが助手をやってあげるよ!」
その言葉を聞いた時、私は一体どんな表情だったのだろう。
実際の所、私は彼女に別れを告げたつもりでいた。
平穏とは切り離された、不安定で先の見えない危険な道。そこに踏み込むと決めた以上、もう私には関わらないでほしい、と。
高校時代からの長い親友である彼女との縁を切ることに躊躇いはそれほどなかった。当時の私は、父が殺されたショックと怒りで頭が麻痺してしまっていたから。自分のことだけを考えるのに精一杯で、他人との関わりなんてもうどうでもいいと思っていた。
だから、彼女が私と一緒に来てくれると宣言した時、いささか拍子抜けした。
(何で? これは私個人の問題なのに、どうしてそこまで付き合おうとしてくれるの?)
そんな私の戸惑いを読んだかのように、彼女はこう続けた。
「だって、桜はあたしの一番の親友だから」
それは魔法の言葉だった。
目の前を彩っていた赤色が……どんなことをしても決して落ちないと思っていた絵具がわずかに身悶えしたのだ。色あせていく絵具と同じように、私の中で燃え滾っていた復讐心も、熱を失い急速に収束していった。
彼女と共に歩めば、一面赤色に染まっていた景色の中に、もう一度あの桃色の桜を見つけられるかもしれない───そこには根拠も何もなかったけれど、彼女の言葉がどうしようもなく嬉しくて、温かくて、思わず涙がこぼれてしまったのを覚えている。
まるで子供のように泣きじゃくる私を、彼女はそっと抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ。桜はあたしがちゃんと支えてあげるからさ」
父を失って、今にも壊れてしまいそうな空虚な心に、彼女の言葉は優しく響いた。
子供の頃、私の中に根付いた桜の大木。それは引き裂かれてしまったけれど、代わりに自分が支えになってあげると彼女は言った。
どんな道を選ぶことになっても幸あれ───私の名前に込められた父の想い。
彼女が傍にいてくれれば、いつまでもそれを忘れないでいられるかもしれない。
「……うん。ありがとう、胡桃(くるみ)」
高校時代からの親友として。そして、共に歩む大事なパートナーとして。
「これからもよろしくね」
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